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少年野球の思い出
スギーが少年野球のころの思い出を書いていたので、私も書いてみました(書き溜めていたのですが先を越されました・・・)。無駄に長いですし、個人的な内容なので適当に読み飛ばしてください。
野球をやるようになったのはいつからだろう?はっきりとは思い出せませんが、おそらく小さい頃から子供の面倒見のいい父がキャッチボールとかで良く遊んでくれたから好きになったと思います。私は先天性の病で5歳のときに一度手術を受けています。手術は成功しましたが中学卒業まで激しい運動は禁止され、それもあって体力や運動神経が同級生と比較してもかなり劣っていました。
小学校低学年のころは、とにかく近所の同い年くらいの人を誘ってゴムボール野球を毎日のようにやっていました(恥ずかしながら大学を卒業するまでゴムボール野球はやってました。しかもキャンパス内で・・・)。嫌がる弟もかなり無理やり付き合わせてしまいました・・・
小学校4年になると、いよいよ少年野球チームに入団できるようになります。確か記憶では、一番の親友のムッチー村口が既に入団していたことと、元来野球が好きだったこともあり入団を決断したように思います。ムッチーとは今でも親友で、一応あらたーずのメンバーでもあるのですが、なぜ仲良くなったのかは今でも謎です(笑)。

しかしこのチームがド田舎のチームなのにめちゃくちゃ強くて、自分が入団した時の2年先輩から1年後輩までの選手は粒揃いで県大会にも時々出場するくらいのレベルでした。確か2年先輩のキャプテンだった方は、後に浜商のキャプテンを務めていますし、1年後輩の左腕ピッチャーは常葉菊川のエースになったと思います。他の方もいろんなところで活躍されているように思います。ぐっと世代は遡りますが、後にはプロ球団に入団する選手も輩出しています。田舎だから運動神経がいい人が多いのかなと思ってしまうくらいみんなすごかったです。運動神経がいい集団と悪い集団に分かれて、いい集団の人はみんな野球をするって感じでした。で、私はなぜか悪い集団から一人だけ野球に入ってしまったと言う感じでした。それだけ客観的に野球と言うスポーツを好きだったんだと思います。

同世代の選手もはっきりいって自分以外はすごい運動神経の持ち主ばかりでした。ムッチーは後にそのすごい人たちを束ねてキャプテンを務めることになるくらいのスゴイ奴でした。今となっては面影もありませんが(失礼!)、5年生の時からレギュラーで1番打者を務め、打っては時々ホームランも放つ真弓のようなパワーを兼ね備え、さらに高橋喜彦のような俊足で塁を掻き乱し、守備でも河埜と同じくショートで好プレーを連発していました。体格は自分とそれほど変わらないのになんでこんなに違うんだろうといつも思っていました。おまけに頭も良くて、女の子にもモテモテでした。ヒゲー!

で、私はと言うと、やはりみんなが凄すぎてあまり溶け込めずに3年間が過ぎてしまったような気がします。このあたりはスギーと似ていますが、救いだったのはムッチーがいつもキャッチボールの相手をしてくれたことです。あの頃は「あのスゴいキャプテンが自分とキャッチボールをやってくれている」ってなんとなく乙女のような優越感に浸ったりもしてました。
それにしてもキャッチボールの相手が見つからない時くらいの惨めさといったらなくて、多分ムッチーがやってくれなかったら自分は一人でぽつんとしてるしかなかったんじゃないかと思います。自分が劣ってるって思ってしまうと、誰にも相手を頼めないんですよね。それはなんとも言えない孤独感があります。ですから、あらたーずに新人さんが入ってきた時はチームに慣れるまでは自分が相手をするか、必ず誰かに「新人さんとキャッチボールしてあげて」と頼むようにしています。ほとんどの人が最初の日は私とキャッチボールをしていると思うのですが、こんな理由があるからです(もちろん新人さんがどれくらいの力量かを測るいいチャンスでもあります)。

4,5年生でまだ試合に出ないと分かっている頃は応援だけなのでそれほど緊張感もなく嫌でもなかったのですが、6年生になって試合に出る可能性が出てくると極端に野球への拒否反応がでるようになりました。学校は無遅刻・無欠席なのに野球の試合は仮病で休んだり、雨が降るように祈祷をしたりしていました(雨ならファミコンできるし!)。
同級生は確か8人で私以外は固定のレギュラーでしたが、私だけは下級生に実力で完全に劣っていたため2試合に1回お情けで出してもらえるかどうかといった状況でした。もちろん「9番ライト」の少年野球で言うところのダメダメ君お決まりのポジションです。気を使って出してくれる監督さんには感謝でしたが、できれば試合には出たくないってのが本音でした。みんなの足を引っ張りたくなかったからです。

あと練習はきつかったです。練習自体は鬼のように厳しいわけではないのですが、激しい運動を禁止されていた自分にとってはかなりハードでした。例えばライトで10本ノックを受けるだけで呼吸ができないくらいの状態になるのです。でも他人に心配をかけてはいけないとそういうのを表面に出さないようにしていたので余計に苦しかった・・・今でもそうですが、持久力はほんとにひどいものです(今現在の持久力の無さは自分の甘えから来てますが)。

当時の成績はどうだったのかな〜。今となってみると、当時の成績をつけていなかったのはすごく悔やまれます。だから草野球の成績だけはしっかりとつけておきたいと余計に思います。
しばらく前にムッチーとお互いがどんなバッターだったか話し合ったことがあるのですが、そのあたりから想像すると
『打率は約1割5分、長打は通算で2塁打1本のみ、三振はほとんどした記憶がない、四球はやたら多くて出塁率は4割を超えていたのではないか』と思われます。三振をしないところは今と同じです。あと12打席連続四球とかあった記憶があるので、かなり四球は多かったと思います。かなりチビだったし、打席に被って構えるので投げにくかったのでしょう。今と違うのはパワーと打席での気持ちの持ち方(ゆとり)かな?そんなに今とスタイルが違うとも思えません。

唯一自慢できるのが、後に浜商で甲子園のマウンドにも立った1年上の先輩投手からヒットを打ったことです。とにかく小学生離れした凄まじい剛球で、離れていても「ゴゥー」「シューッ」と球の音が聞こえてくるくらいのピッチャーでした。で、もちろん私は振り遅れてバットの根っこに当たったのですが、それがたまたまセンター前へ強烈なライナーで飛んでいきました・・・あの時は、「滅多にヒットを打たれないピッチャーがヒットを打たれた。しかも9番打者の下級生のチビに」と敵味方、選手や保護者も関係なく驚きの声があがったのを覚えています。やっぱり当時から反射神経だけは良かったみたいです。この日のヒットはチーム計2本でした。やはりというかあとの1本はムッチーがきっちりとライト線へ二塁打を放った記憶があります。

あと笑ったのが、私は反射神経だけが頼りなので、デッドボール気味の球を全てよけることができていたのですが1度だけデッドボールをくらったことがあり、そのぶつけたピッチャーと、同じ高校で再会することになったことです。私は忘れていたのですが、ムッチー(同じ高校)が彼と同じクラスになって「彼がお前に唯一のデッドボールをぶつけた男だ」と紹介してくれたことがありました。
そういえば草野球を始めて最初の5年くらいはデッドボールをくらってませんでしたが、最近だんだんとぶつかるようになってきたような気が・・・年齢による反射神経の低下なのでしょうか。。。ヤダー。

次回、「中学からの卓球部編」に続く   かも?
by あらたーず代表 | 草野球に関する雑談 | comments(0) |

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